都議選も終わり、久しぶりの投稿になりました。長期間ご無沙汰してしまい申し訳ありませんでした。
今回の都議選におきましては、党員、支持者の皆様方のご支援には心から深く感謝申し上げます。
さて、民主党の永田衆議院議員が、今回の選挙に関して、公明党の支持団体である創価学会が集団で「住民票移動」を行ったかのような事実無根の中傷発言をし、自民・公明両党から懲罰委員会に動議をかけられています。
国会議員でありながら、確たる根拠もなく、現実にはあり得ないことを平気で発言する個人のモラルに、現在の民主党の程度の低さを象徴しているかのようである。
話は変わりますが、ある海外の宗教学者がこう語っていました。「日本人は宗教と呪術の区別がついていない」と。
宗教は人間にとって不可欠なものです。かの精神学者ユングが“人間が自身への反省や良心、また向上心、勇気を持ったのはいつか。それは人間が宗教を持ち始めたときである”と述べている通り、宗教は人間のこうした意識の誕生に大きな影響を与え、自らを磨いていくことを教えています。
一方、呪術はそうではなく、個人一人一人は祈りません。特別な儀式を執行し、人々はこれに参加し、そこに帰依する代償として呪物を与えられる、大衆一人一人に向上心を植え、自立させる宗教の台頭を恐れる権力者がつくりあげたもの、それが呪術です。
日本でいえば、新年の初詣、交通安全や商売繁盛祈願のお守り、年中行事の参拝など宗教と思っているものはまさに呪術なのです。
「自分には信念がある。努力と信念で生きていく」という人がいます。
信念を英語で約すと“ビリーフ”といいます。また「信仰」を英語に訳すとこれも“ビリーフ”といいます。
「信念」と「信仰」は英語では同じ語で表せるのです。ですから「自分には信念がある。だから信仰は持たない」というのは英語としては非常に矛盾するのです。
また「宗教は一人一人の心の問題である。人に押し付けたり、強制したりするものではない」と言う言葉も聞きます。
これは驚くことに実は「大日本帝国憲法」及びその解釈書に記された“信教の自由”そのものなのです。
当時、明治政府は江戸時代に禁制されたキリスト教等の信教の自由を認めますが、キリスト教の布教と同時に欧米の自由、平等、博愛の精神が広がることを恐れたのです。
すなわち天皇を絶対君主とする国家をつくる妨げとなるからです。「宗教は自由である。それは個人の内面に限る。国家の中では人は絶対君主の天皇に従わなければならない。他人への布教は法律で規制されなければならない」と。
当時の国家はこうした詭弁を考えたのです。
こうした信教の自由は学校等でも徹底的に教えられ、いまだに日本人はそこから抜け出せすことができないのです。
同じ流行に一斉に流されがちな今の精神風土を見ていると、「自分とは何か」「自分にとって真の幸福とは何か」「自分にとって真の友人とは何か」と自分を見つめる真の宗教的価値観を立てることが、この国にとって最も大切であると思います。